第1日目

赤 穂 城 は 楽 し み ま し た

先ず石垣です


第一に、竹田城跡、姫路城、姫路城の石垣とはかなり違います。石一個一個が加工して
ある感じです。1648年から61年の13ねんの間と言いますから、そんな時間の中で石
加工の技術が進歩したのでしょう。穴太の技術なんてもう要らない時代、と言えるかも
しれません。隅櫓が門から出っ張っているのは石垣に取り付いた敵を撃つのに都合が
いいためですが、復元された隅櫓には狭間らしい狭間が付いていません。
水手門(右下)など何箇所か石垣の隅がカーブになっているところ(左真中)があります。
水手門の場合は入ってくる船がカーブしやすいためかと思いますが、他の場合はよくわ
かりません。トモアレ、これが可能になったのも石の加工技術のためでしょう。
その水手門ですが、城の南側は海に面しています。船が入りやすい、着きやすいように
工夫してありますがうまく写真に写せませんでした。
城内に天守閣跡みたいな石垣で組んだ台があります。天守閣をつくる予定のところ、江
戸城が大火で天守閣なしになってしまったので遠慮してとうとう建てなかった、幻の天守
台、ということになります。



城内本丸御殿の庭は見事です。広い池は水道のところで紹介しましたが、もう一つ、
右遠景の石垣の切れ目、海に通じる刎橋門の跡です。物資などは水手門から揚げる
ので、城内で亡くなった人の遺体などを出しのだそうです。


本丸御殿の遺構が発掘され、間取りが詳しくわかり、その実物大復元間取り図が元の
場所に作ってあります。畳一枚一枚作ってあるのは見事です。


本丸石垣の外にも、数々の遺構が発掘されています。左は錦帯池と呼ばれた庭園の跡、
配流中の山鹿素行も遊んだ庭、広い池と築山植え込み、そして春は桜が一杯、そんなお
庭を今復元中です。その向うには何段かの石垣も出ています。これは「二の丸土塁」の
簡易石垣か、それとも築山の石垣か、想像は巡ります。



もうみんな忘れちゃったかな、山鹿素行って偉い偉ぁ〜〜い軍学者です。幕府に疎んぜら
れ、浅野家に流されていたんです。蔵之助がいろいろ教わったのはもちろんです。忠臣蔵
の蔵之助の陣太鼓が「甲州流」というのはそれです。城内に銅像がありました。もちろん明
治になってからでしょうけれども寝。



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