おじさんと世界を遊ぶ2008チリペルー旅行
発端です。http://www.mammo.tv/column/yuri_aono/20040327.html
 確か1974年、国際電波科学連合(URSI)の総会出席のために行くことになりました。そこで日本人らしからぬ日本人石塚睦さんと初めてお会いしました。
 その総会では日本からはojisan(当時は若かった?)ひとり、しかし、ミリ波の観測を始めている、将来は本格的な観測施設を作りたい、言ってみれば日本の「宇宙電波進出計画」宣言と、それから、当時名古屋大学空電研究所の田中春夫先生を電波天文分科の委員長に推薦、の二つの任務(勝手な任務?)を帯びていました。
 何の下工作もなく、孤軍奮闘、そのときの委員長(ウエステルハウト氏)が反対したり、でしたが、なぜか圧倒的多数の支持で、受け入れられました。
 ojisanにとっては、何とか進み始めていた6m望遠鏡による観測、木更津高専屋上の1.2m望遠鏡によるオリオンのCO観測などが、アメリカ以外での星間分子の観測が進み始めている、そして「将来計画はどんなもの」「実現性は?」などなど関心を集め始めていたのが感激でした。
 その会場で名乗ってこられたのが、前からおぼろげながら聞いていた、京大から20年前に「派遣」され、コロナ観測所建設に悪戦苦闘しておられる石塚さんでした。
 「あっこれは大変な仕事だ」自分たちの悪戦苦闘にアップアップしているくせに「何か手伝うことないかな」なんて考える自分でした。
 そのあとちょうどミリ波の観測を始めていたブラジルによる約束があったので、帰り道になんとか寄ってみられないか、工夫してみる、と約束、何とかもう一度ペルーに戻ることができました。
 初めての訪ペルー、しかも専門違い、しかし石塚さんはワンカイヨからコスモス観測所まで案内してくださり、その途中や現場などで、「何かお手伝い」と真剣に話し合いました。
 何年かあと、コロナ観測所が完成し、開所式のお招きいただきましたが、その何年か後やっと観測が軌道に乗った頃、ゲリラの爆破され、壊滅的な被害を受け、スタッフも散り散りになってしまった、などの風の便りが渡ってきていました。
 そんなあいだ、どの程度「お手伝い」になったかはわかりませんが、当時脂の乗り切っていた宮沢さんを太陽電波観測装置改良のために数ヶ月行ってもらったり、ペルーのスタッフを一人1年預かったり、石塚さん名義の通帳を預かって、電気部品などなどいろいろ買い物したり、そんな関係が続きました。
 そんな間も石塚さんの活躍、日本での呼応、などが少しづつ実り、支援の輪が広がってきたのでしょう。ご長男のホセ君が、ゲリラから逃れて日本に亡命(?)、ちょうどおじさんのいた鹿児島大学の大学院に入学、引き続き東大で博士を取られたのも「将来」の希望の灯になりました。
 日本でもこんな風に支援の輪が広がり、一方ペルーでは内戦も収まる方向、外からの支援にこたえる動きもふくらんできて、今度、関係者10何人かが参加してペルー訪問となったわけです。